ものは捨てない——断捨離・ミニマリズムとWABismの違い

造形表現分野での私の関心は、若年時(10代)に出会った20世紀の現代美術から始まっていて、 そこで展開されている“オブジェ”思想から決定的な影響を受けました。 美術表現における“オブジェ”についての考え方はさまざまですが、 後に自分の仕事のフィールドに設定した現代工芸の世界では、オブジェを“用途無きもの”という意味で捉える考え方があって、 やがて“オブジェ=無用のもの”と考えるに至りました。 そういう意味での“オブジェの思想”が私の生き方の指針をなしています。 “オブジェ”の思想を実践していくということは、私の中では「オブジェ的に生きる」ということを意味していて、 それは、“無用のもの”として生きるということであり、「何者でもなく在る」ということを理想とするものです。 以上のような次第で、私の中では、ものの価値判断において「用途の有る無し」「役に立つものと立たないもの」という区別は存在していません。 というか、そのような区別意識の下でものの価値を判断していくことに対する批判意識というものが、私にはあります。 今日の社会は、ものや人を「役に立つ、立たない」とか「生産性がある、ない」という区別によってその価値を判断していこうとする傾向があるようですが、 地上のすべての存在物・者は天から与えられた意味を有している、というふうに考えるのが“オブジェ思想”の背景をなしています。 「役に立つ、立たない」「生産性…

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“WABism(ワビズム)”の原則五箇条

“WABism(ワビズム)”の原則を五箇条にまとめてみました。以下のとおりです。 1. 簡素である 2. 艶(華)がある 3. 足るを知る 4. 差別がない 5. 造化に随う 「簡素」とは、シンプルで合理的な在り方を表わします。 けれども、無味乾燥というわけではない。 もののナチュラルな在り方です。 ものの美しさはナチュラルな在り方の中に現れてきます。 それを「艶」と呼ぶ。あるいは「華」といってもいい。 簡素の奥に艶(華)が控えている。それを“侘び”と言うのです。 “侘び”の美には、王朝貴族の“雅び”の美意識が底流しています。 中世の時代にはそれが突き詰められて、「冷・凍・寂・枯」の究極としての「氷ばかり艶なるはなし」(心敬「ささめごと」)に達するのです。 “雅び”が艶に転換して、“侘び”の文化が展開していきます。 “侘び”の経済的な原則は「足るを知る」ということです。 現代の経済部門での格律は「欲望を満たす」ということで、それが経済活動や生産・創造活動のエネルギー源であることは否定できませんが、 「欲望をコントロールする」という反面もありうるのです。 欲望をコントロールする技術を身につけることができれば、欲望の限界を超えた眺望が開けてきます。 「欲望を満たす」路線の果てに得られる幸と、「欲望をコントロール」していく路線の果てに得られる幸と、 要はそのどちらを選択するかということが、…

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「侘び」の意味——物質的な乏しさの中で豊かであること

“侘び”とは言うまでもなく「侘び・寂び」の侘びであり、ここでは特に「侘び茶」の侘びの意味を受け継ぐつもりでいます。 そういう意味での“侘び”は日本の伝統的でオリジナルな文化現象を表わすものとして考えられてきているのですが、 その具体的な意味については、昔から関連文化領域に関わる人たちの様々な解釈がなされていながら、今ひとつはっきりしなくて、 何か意味深でハイブローな文化意識であるかのごとく扱われることが多いようです。 ここでは、そういった漠然とした曰く言いがたい抽象的な文化カテゴリーとしてではなく、 なるべく客観的な、説明する気になれば誰でもできるような、そういう”わかりやすい“定義を提示しておくことにします。 それは「侘び茶」という言葉に込められた意味からの転用です。 「侘び茶」という言葉は、室町期に村田珠光という茶人によって始められ、織豊期に千利休によって大成された茶の湯の形式を指します。 別な呼び名に「侘び数寄」というのがあって、「数寄」とは茶の湯に使われる道具を意味します。 茶の湯の儀式の体裁を整える上で道具には特別の意味が托されていて、 室町期の上流武士階級や貴族や富裕商人の間で催された茶の湯には、 中国(当時は明朝が支配していた)渡来のいわゆる“名物唐物”と呼ばれていた高級な道具が使われていました。 “名物唐物”を使うことが茶会の格というものを決定していたようですし、 また、そういった道具を所有していることが、茶人の自慢でも…

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